頭皮冷却療法(その1)
乳がん治療における頭皮冷却療法(scalp cooling therapy)は、化学療法による脱毛(脱毛症)を予防・軽減するための治療法です。化学療法の副作用として髪が抜けることは患者にとって身体的・精神的な負担が大きく、生活の質(QOL)にも深刻な影響を与えます。頭皮冷却療法は、乳がん患者にとって髪を守るための重要な治療オプションとして、近年世界中で注目されています。ここでは、頭皮冷却療法の歴史、メカニズム、現況、そして今後の展望について説明します。
1. 頭皮冷却療法の歴史
1.1 1970年代の初期研究
頭皮冷却療法の概念が初めて登場したのは、1970年代のことです。当時、化学療法の副作用である脱毛を減らすための方法を探していた研究者たちは、頭皮を冷却することで血流を減少させ、化学療法薬が毛根に到達するのを防ぐことができるのではないかと考えました。この仮説に基づき、さまざまな冷却法が試され始めました。
初期の冷却法としては、氷を詰めた袋や、凍ったジェルを使用して頭皮を冷やす方法が行われていました。しかし、この時期の頭皮冷却療法は、技術的な限界や冷却の効果が安定しないことから、限られた効果しか得られませんでした。また、冷却が不均一であったり、患者の頭皮に冷却物を装着することが不快であるといった問題もありました。
1.2 冷却装置の開発と改良
1980年代以降、頭皮冷却の技術は徐々に進化しました。この時期に、電動で冷却を制御する装置が開発され、より効果的かつ安定した冷却が可能になりました。これにより、頭皮を均等に冷却でき、より多くの患者にとって現実的な治療選択肢となりました。
初期の冷却装置は、冷却キャップ(scalp cooling cap)を使用して頭皮全体を冷やすものでした。冷却キャップは、冷媒を循環させるチューブが内蔵されており、温度を一定に保つことで、頭皮の血流を抑え、化学療法薬が毛根に到達するのを防ぎます。これにより、毛根に対する化学療法薬の影響を減少させ、脱毛を予防することが可能となったのです。
1.3 医療現場での広まりと課題
1990年代から2000年代にかけて、頭皮冷却療法は欧米を中心に徐々に医療現場に導入されるようになりました。特にヨーロッパでは、乳がん治療の補助療法として広く使用されるようになりました。しかし、頭皮冷却療法の普及にはいくつかの課題がありました。
まず、冷却キャップの装着は不快感を伴うことが多く、冷たい感覚に加えて、キャップを長時間着用する必要があるため、患者にとって忍耐が求められました。また、冷却装置自体が高価であったため、導入する病院が限られていたことも普及の妨げとなっていました。
加えて、冷却による脱毛の予防効果には個人差があり、すべての患者に同じ効果が得られるわけではないことが課題でした。特に、強力な化学療法薬を使用する場合や、長期間の治療を行う患者には、冷却の効果が限られることがありました。
2. 頭皮冷却療法のメカニズム
2.1 化学療法による脱毛のメカニズム
化学療法は、がん細胞を攻撃するための強力な薬剤を使用しますが、同時に正常な細胞にもダメージを与えます。毛根に存在する毛母細胞は、分裂が活発な細胞であり、化学療法薬の影響を受けやすいです。これにより、毛母細胞の働きが抑制され、髪が抜け落ちてしまうのです。
2.2 頭皮冷却療法の作用機序
頭皮冷却療法は、頭皮の温度を低下させることで、化学療法薬が毛根に到達するのを防ぐ治療法です。冷却により頭皮の血管が収縮し、血流が減少することで、毛根に流れ込む化学療法薬の量が減少します。また、低温環境下では、毛母細胞の代謝が低下し、薬剤によるダメージを受けにくくなります。これらの作用により、脱毛が抑制されます。
具体的な効果は以下の2つのメカニズムによると考えられています。
- 血流の減少:冷却によって血管が収縮し、化学療法薬が毛根に到達しにくくなる。
- 代謝の低下:低温によって毛母細胞の代謝活動が抑制され、化学療法薬の影響を受けにくくなる。
3. 頭皮冷却療法の現況
3.1 現代における技術革新
21世紀に入り、頭皮冷却療法の技術はさらに進化し、より高性能な冷却装置が開発されました。特に近年では、冷却キャップの性能が向上し、冷却の精度が飛躍的に向上しています。現在の冷却キャップは、電子制御により温度を安定して保つことができ、冷却効果が均一に頭皮全体に行き渡るように設計されています。
この技術革新により、脱毛予防の効果は以前よりも高まり、より多くの患者が恩恵を受けるようになりました。また、冷却装置のデザインも改善され、着用時の不快感が軽減されています。
3.2 臨床試験とエビデンスの蓄積
乳がん治療における頭皮冷却療法は、現在、多くの臨床試験でその有効性が確認されています。特にアントラサイクリン系やタキサン系の化学療法を受ける患者に対して、頭皮冷却療法が脱毛を減少させる効果があることが証明されています。
例えば、2017年に発表された米国の臨床試験では、乳がん患者において頭皮冷却を行った患者の約50%が化学療法中に髪を保持できたという結果が報告されています。また、脱毛を完全には防げない場合でも、頭皮冷却療法によって部分的な脱毛に抑えられることが多く、患者の満足度が向上するという結果も示されています。
3.3 世界的な普及状況
頭皮冷却療法は、欧米を中心に多くの国で普及しています。特にヨーロッパでは、乳がん治療を受ける患者に対して広く利用されており、多くの病院やクリニックがこの技術を導入しています。米国でも、近年頭皮冷却装置がFDA(アメリカ食品医薬品局)によって承認され、頭皮冷却療法が公式に認められた治療オプションとなっています。
一方で、日本を含むアジア地域では、頭皮冷却療法の導入は進行中であり、一部の医療機関で提供されています。日本においても、乳がん患者に対する頭皮冷却療法の導入が進んでおり、今後さらに普及が拡大することが期待されています。
4. 頭皮冷却療法のメリットと課題
4.1 頭皮冷却療法のメリット
頭皮冷却療法の最大のメリットは、化学療法による脱毛を予防または軽減できる点です。脱毛は、特に女性患者にとって心理的な負担が大きく、頭皮冷却療法を使用することで、治療期間中も自信を持って日常生活を送ることができます。髪を保つことで、治療中の精神的ストレスが軽減され、生活の質が向上することが期待されています。
また、頭皮冷却療法は副作用が少ないことが特徴です。冷却時に一時的な不快感や頭痛を感じることはありますが、長期間の副作用や重篤な合併症はほとんど報告されていません。これにより、化学療法中に安全に使用できる治療法として認知されています。
4.2 頭皮冷却療法の課題
一方で、頭皮冷却療法にはいくつかの課題も残されています。まず、すべての患者に同じ効果が得られるわけではなく、個人差が大きいという点です。患者の体質や化学療法の種類によっては、頭皮冷却を行っても脱毛を完全には防げないことがあります。
また、冷却中に感じる不快感が一部の患者にとっては大きな問題です。冷却キャップの装着により、頭痛や寒気を感じることがあり、これを理由に治療を避ける患者もいます。技術の進歩により不快感は軽減されていますが、依然として快適さの向上が課題です。
さらに、冷却装置のコストも課題です。頭皮冷却療法を提供するためには、専用の冷却装置が必要であり、その導入には高額な費用がかかります。また、一部の国では保険適用がされていない場合が多く、患者が自費で負担する必要があります。
5. 頭皮冷却療法の今後の展望
頭皮冷却療法は、技術の進歩や臨床データの蓄積により、今後さらに多くの乳がん患者に利用されると考えられます。特に、冷却装置の性能向上に伴い、効果的で快適な冷却が実現されることで、患者の満足度が向上し、普及が加速することが期待されています。
また、保険適用の拡大や、医療機関への導入コストの低下が進むことで、頭皮冷却療法がより広く利用されるようになるでしょう。頭皮冷却療法が乳がん治療の標準的な補助療法として確立されることで、化学療法による脱毛という課題に対する解決策がさらに充実することが期待されています。
6. まとめ
乳がん治療における頭皮冷却療法は、脱毛を予防または軽減するための有効な手段として発展してきました。1970年代から始まったこの療法は、技術革新により効果と快適さが向上し、今日では多くの国で乳がん治療の補助療法として広く認識されています。今後も、頭皮冷却療法は乳がん患者の生活の質を向上させる重要な治療オプションとして、さらなる普及が期待される分野です。
頭皮冷却療法のQ/A~頭皮冷却療法の基本的なことを教えてください
抗がん剤による脱毛を防ぐ「頭皮冷却療法」について (虎の門病院 乳腺内分泌外科)
頭皮冷却療法の現状
頭皮冷却療法は2019年3月に厚生労働省により薬事承認され、2021年版の「がん治療におけるアピアランスケアガイドライン」でも推奨され、科学的根拠のある治療法として推奨されている。
頭皮冷却療法は、乳がんの術前・術後補助化学療法にまず導入された。現在、保険外診療として導入されているが、外来で普通に選択肢として提供できている病院は少ないと思われる。
虎の門病院では2021年8月にこの技術が導入され、現在4台の機器が導入され、同時に最大で7名の方に実施することが可能になった(1台の機器で2名の患者さんに同時に使用可能)。
イギリスで開発
脱毛を防ぐ方法があれば、抗がん剤治療を受けることへの抵抗感も減るのではないだろうか。そんな期待から生まれた頭皮冷却療法は、1997年にイギリスで装置のプロトタイプが開発された。
頭皮冷却療法のメカニズムは、頭にヘッドギアをかぶり、その中にマイナス4℃に冷やした液体を還流させることで、血管を収縮させて頭皮の血流を減少させるというものである(頭皮の接触面は18°C程度に冷却)。抗がん剤は点滴で血管を通して全身に運ばれる。その結果、毛根の細胞にまで抗がん剤が効いてしまうために、脱毛が起こる。頭部を冷やして血液の循環を低下させることで、抗がん剤が届かないようにする。
ビールを冷やす技術を応用
装置を開発したイギリスのメーカー「Paxman」は、元はビールサーバーの冷却システムを造っていた会社だ。会長の妻が乳がんになり、化学療法を行ったことがきっかけで、頭皮冷却の装置を開発した。ビールサーバーの経営者、家族の乳がん治療がきっかけという歴史は非常に興味深く、関わった方の必死の思いが伝わってくる。
2017年には、米国で行われた二つの比較試験(ベイラー大学とカリフォルニア大学)で、頭皮を冷却した患者の過半数が50%以下の脱毛にとどまったというデータが米国医師会雑誌(JAMA)に掲載され、欧米で頭皮冷却療法の本格的な導入が世界で始まった。
◇ウィッグが不要になる方も~少なくとも毛根のダメージを最小限に
頭皮冷却療法を行えば、完全に髪が抜けないというわけではない。30~50%程度の脱毛は必ず起きると考えた方が無難である。しかし、冷却しない場合は抗がん剤投与後2~3週間で髪の毛がほぼ完全に抜け落ちる。このことは両者の毛根のダメージに大きな差があることを意味し、回復期に一定の差が出ることが予想される。
『脱毛がある程度で止まっているということは、抜けたところの毛根のダメージも少ないため、回復が早い。それがこの治療のメリットでもあります」
治療中に毛が生えてくる
抜けてしまっても、次の毛が生えてくる立ち上がりが速いことも大きい。抗がん剤投与が終わり、毛髪が生えてくるまでをフォローしたを見ると、かなり脱毛しているが、抜け切るまではいかず、抗がん剤が終わって1カ月程度でかなり発毛が進んでいるのが分かる。
一方、頭皮冷却をしない場合、抗がん剤が終わった段階で完全に毛髪が
無くなり、1カ月後でもあまり変わらない。3カ月後にようやく頭皮が見えない程度にはなるが、脱毛後の回復に要する時間は長い。また、脱毛した後、3年たっても、一部の患者さんは元の状態まで回復せず(20%程度の患者さんに脱毛の問題あり)、薄毛、脱毛、白髪、くせ毛などの問題を抱えているとの報告もある。
「完全に脱毛してしまうと生えそろうまでに、かなり時間がかかってしまい、3カ月後くらいでも、まだベリーショートくらい。この段階で、ウィッグを外す勇気がある人はあまりいません。頭皮冷却を行った患者さんでは髪が、抗がん剤投与中に生えてくることを我々は経験しており、早いタイミングでウイッグが外せることを期待しています」