化学療法未治療のHER2低発現または超低発現の進行乳癌へのトラスツズマブ デルクステカンの適応拡大について

トラスツズマブ デルクステカン(T-DXd、商品名エンハーツ)は、HER2陽性の乳癌に対する治療薬として承認された抗体薬物複合体(ADC)の一種です。T-DXdの開発は、抗HER2抗体と抗がん薬を結合させることで、特にHER2発現がある癌細胞を標的とし、より強力な抗腫瘍効果を発揮させることを目指しています。最近では、化学療法未治療のHER2低発現または超低発現の進行乳癌への適応拡大が検討されており、その意義と今後の展望について紹介します。

1. HER2低発現・超低発現乳癌と従来の治療

HER2低発現または超低発現乳癌は、従来のHER2陽性乳癌とは異なり、HER2タンパク質の発現レベルが低いものの、わずかにHER2が認められる症例です。一般的に、HER2陽性乳癌にはHER2をターゲットとした治療(トラスツズマブやペルツズマブなど)が有効ですが、HER2低発現・超低発現の患者はHER2標的治療から恩恵を受けにくいとされ、従来は主に化学療法が標準治療とされてきました。

ただし、HER2低発現・超低発現乳癌は全体の乳癌症例の約50%を占めるとされ、治療選択肢が限られているため、効果的な新規治療法の開発が求められています。この状況を受け、HER2低発現の進行乳癌に対してT-DXdの効果が期待されるようになりました。

2. トラスツズマブ デルクステカン(T-DXd)の作用機序

T-DXdは、HER2を標的とした抗体薬物複合体(ADC)であり、抗HER2抗体(トラスツズマブ)と抗がん薬(デリクステカン、トポイソメラーゼI阻害薬)が結合した構造を持ちます。T-DXdがHER2を発現している癌細胞に結合すると、細胞内に取り込まれ、抗がん薬が放出されます。これにより、HER2低発現または超低発現でも、HER2を介して効果的に抗がん薬が作用し、癌細胞死を誘導する仕組みです。また、T-DXdの「バイスタンダー効果」により、HER2を発現していない周囲の癌細胞にも影響を与えるため、治療効果が増強されることが知られています。

3. 臨床試験の結果と適応拡大の根拠

HER2低発現乳癌に対するT-DXdの有効性を評価した臨床試験として、DESTINY-Breast04試験が挙げられます。この試験は、既存の治療で効果が乏しいHER2低発現乳癌患者を対象に、T-DXdの有効性と安全性を検証することを目的としました。

DESTINY-Breast04試験の概要

DESTINY-Breast04試験は、多施設共同の第III相臨床試験で、HER2低発現の転移性または切除不能な乳癌患者を対象としています。この試験では、T-DXdの投与を受けた患者群と、従来の化学療法を受けた患者群とで無増悪生存期間(PFS)および全生存期間(OS)を比較しました。

試験結果

試験結果によると、T-DXdを投与されたHER2低発現乳癌患者は、従来の化学療法と比較して、無増悪生存期間および全生存期間が有意に延長しました。具体的には、無増悪生存期間の中央値はT-DXd群で約9.9ヶ月であり、化学療法群の5.1ヶ月と比較して優れた結果が得られました。また、全生存期間もT-DXd群で約23.4ヶ月と、化学療法群の16.8ヶ月に比べて有意な延長が見られました。

これらの結果は、HER2低発現乳癌においてもT-DXdが有効であることを示しており、従来の化学療法に代わる新しい治療選択肢としての有用性が強く示唆されています。

4. 適応拡大の意義

このような臨床試験結果を受け、T-DXdはHER2低発現乳癌に対する治療としての適応拡大が進められています。これは、従来のHER2標的治療が適応外とされていたHER2低発現または超低発現の患者に対しても新たな治療オプションが提供されることを意味し、乳癌治療の選択肢が拡大する重要なステップです。

特に、HER2低発現はこれまで治療選択が限定されていたため、化学療法に代わる治療が求められていました。T-DXdの適応拡大により、副作用の軽減や治療成績の向上が期待され、患者のQOL(生活の質)の向上にも貢献すると考えられます。

5. 安全性と副作用

T-DXdは有望な治療薬である一方で、特定の副作用にも注意が必要です。DESTINY-Breast04試験においても、T-DXdによる副作用として、間質性肺疾患(ILD)、吐き気、疲労感、食欲減退などが報告されています。特にILDは重篤な副作用の一つとして認識されており、早期発見と適切な管理が重要です。

間質性肺疾患の発症リスクを減らすためには、治療前および治療中のモニタリングが推奨されており、必要に応じて治療の一時中断や用量調整が行われます。これらの管理を適切に行うことで、T-DXdの安全な使用が可能になると考えられます。

6. 将来の展望

T-DXdの適応拡大は、HER2低発現または超低発現乳癌患者に新たな治療の可能性を提供するものであり、今後の臨床応用が期待されています。さらに、T-DXdの効果を最大限に引き出すためには、HER2発現レベルに基づく個別化治療や、他の治療薬との併用療法の検討も進められる可能性があります。

また、T-DXdの適応拡大が他の癌種(胃癌や肺癌など)においても検討されており、ADC技術を活用した治療法の発展が期待されます。特に、HER2発現に関係なく癌細胞を効果的に標的化できるT-DXdの特性は、今後のがん治療の大きな革新をもたらす可能性があります。

7. 結論

化学療法未治療のHER2低発現または超低発現の進行乳癌に対するトラスツズマブ デルクステカンの適応拡大は、従来の治療選択肢が限られていた患者層にとって画期的な進展です。DESTINY-Breast04試験で示された有効性と安全性のデータに基づき、T-DXdが新たな治療標準として導入されることが期待されています。今後、T-DXdを含む治療選択肢が乳癌治療の分野でさらに拡大し、個別化医療の実現に向けた一助となることが期待されます。